琉球王国最後の尚泰王と琉球処分
1853年、5月26日にアメリカのペリー提督率いる4隻の軍艦が那覇港沖に停泊しました。尚泰王は、この時まだ若かった為に代理の摩文仁按司が交渉にあたりました。
ペリーは沖縄を占領し人民を解放すれば、日本の開国を迫る足場になると考えていたようです。
しかし、首里城に来て会談を重ねていくうち友好関係が結べると判断した彼は、7月半ばには琉球を後にして江戸に向かう事になります。
これが日本国中を大騒動に巻き込んだ浦賀沖の黒船来航です。
翌年日米和親条約が結ばれ、一行は又那覇に帰ってきました。 そして、米琉修好条約が締結されます。
1871年、日本で廃藩置県が行われ、それに伴い琉球は鹿児島県の管轄下に置かれるようになります。
その後、続いていた琉球の王朝制度が問題になり始め、1872年、琉球国から琉球藩に。尚泰王は華族になり、琉球藩王という地位になって外国との交渉を禁止されました。
清国への朝貢は差し止められ、王は東京移住を言い渡されます。
そして首里城を開け渡し王府は解体する事を通達されました。
1879年、大日本帝国政府は500名弱の部隊で首里城に乗り込み沖縄県設置を宣言し、3月31日には尚泰王が首里城を明渡し東京に連行され、沖縄を離れる事になり、長い間続いた琉球王国独自の歴史は、ここで強制的に幕を閉ざされました。
この一連の事件を琉球処分と呼びます。
この時最後まで、按司や親方職に就いてた者の中で琉球処分に反対し、抵抗した人達もいました。
当時の清国に助けを求め亡命した者もおり、また国際社会に働きかけました。清国も一度は大日本帝国政府に抗議がありましたが、それからの救援は無く、琉球王国が再興される事は無く処分を迎えました。
日本の県、沖縄県としての新しい立場
琉球処分後は、琉球は沖縄県となりましたが、沖縄県民が他の県の県民と同じ国民としての権利を得るまでには、時間がかなりかかりました。
沖縄県各地で旧制度廃止や他県との不平等などの制度改善を求めて県庁職員だった謝花昇を中心に運動が盛り上がり、地租改正、市町村制、府県制、衆議院議員選挙法などが、本土から遅れて施行されました。
その後、大日本帝国政府による沖縄県の皇民化計画は進められ、1890年には皇国史観を養うことを目的に沖縄各所にあった御獄は神社として整理され、拝殿や鳥居をつくり神道の布教が行われました。
1898年には徴兵令も施行されました。
1920年、南洋諸島が日本の委任統治になると、多くの沖縄県民が移住し、ハワイやブラジルなどへの移民が盛んになりました。
第二次世界大戦と沖縄
1945年、沖縄は太平洋戦争に巻き込まれて本土決戦のための捨石と位置付けられたと伝えられてます。
国内唯一の大規模な地上戦が行われ、多くの犠牲者を出しました。
ウチナーンチュも皇国史観を叩き込まれ、軍属の偏向教育によりアメリカ人は人間じゃないと思い込み、捕虜になるより自決を選ぶ県民が多くいたそうです。
手榴弾で集団自決した話しなど 沖縄では、このような体験を今でも語りつづける戦争体験者がおられます。
沖縄戦で戦死した日本人 188,136人の中で、沖縄県出身者が122,228人(一般人94,000人、軍人・軍属28,228人)といわれています。
これには、餓死したり病死した数は含まれておらず、戦争のために亡くなった方の数は、これをかなり上回ったものと言われております。
戦後沖縄と米国統治下
終戦後、約30万人の県民はアメリカ軍の収容所で働かされました。
1945年になると、ようやく人々は自分達の村に帰れるようになりましたがどこも焼け野原の状態で、復興には多大な努力が必要でした。
県民が収容所にいる間に、アメリカ軍は広大な土地を軍用地として接収していて、これが現在もそのまま残る米軍基地となりました。
その後、世界情勢が緊迫してくると、アメリカ軍は沖縄を太平洋の要石として位置付け、より基地機能の拡大をはかりました。
県民は、強引な土地使用の条件の改善を求めて島ぐるみの闘争を行い、1958年には絶対的権力者の米軍から譲歩を勝ち取りました。 この事が、復帰運動につながっていきます。