第13代は尚敬王が継ぐ事になります。摂政蔡温の働きもあり、この時代は繁栄していきました。
尚敬王は蔡温とともに町に市を増やして活気をあふれさせていきました。また、踊りの中にせりふを入れた組踊りもこの頃に出来上がり、現在まで受け継がれております。
1732年に御教条という10数条の人の道を説いたものを公布したや、この時代に、琉歌の歌人、恩納ナビが出てきて活躍しました。琉球を文化大国にし、名君と言われました。
1752年、尚敬王が亡くなり、第14代に尚穆が王位を継ぎます。
この時代に琉球科律を完成し、さらに褒章制度を整備し、国民の模範となるものに物品や役職を授けました。
1788年に世子の尚哲が 死去した為に病死した尚穆の後に、尚哲の子の尚温が第15代王とし即位しました。
尚温王は1798年に国学(現沖縄県立首里高等学校)、平等学校を開き教育に力を入れましたが、1802年には没し、尚温の子の尚成が、第16代王として即位しますが、一年も経たないうちに病死してしまいます。
この様に数年間で、めまぐるしく王が変わり、1804年には尚成の叔父にあたる尚灝が第17代王とし即位します。しかし精神病を患ったため、1828年世子の尚育が摂位となり事実上の統治をしていました。
在位中、宮古・八重山方面への派遣医師の増員のほか、琉球の刑法典である『琉球科律』を追補する『新集科律』の編纂にあたりました。
外国船との交流
1816年にイギリスの軍艦が二隻泊港に寄港して琉球の人たちと交流をし、1821年にはオランダの商船が来航して開港貿易を要求しましたが、このときの沖縄は日本の一部となっていましたので、交渉に応じる事が出来ませんでした。
1827年にはイギリスの商船も来沖して同じように開港貿易を求めてきます。