わたしたちの歴史 その二

奄美大島反乱鎮圧

第4代尚清王は1537年には奄美大島で起こった反乱を鎮圧し、首里城の防備を固め外敵に備えていました。尚清王が病死のあと、1556年に第5代尚元王が王位につきます。
尚元王の時代には倭寇が那覇を目指してきたものの撃退し、奄美大島の再討伐などで圧勝します。1572年、に尚元王は病死し、後は尚永王が継ぎます。

守礼門の額

首里城の守礼門の上にある「守礼之邦」の額が掲げられたのは、第6代尚永王の時代でした。
冊封使が尚永王を称え、琉球国こそ主礼の国であると言わしめたことを記念したものであると言われております。

薩摩藩の琉球侵攻の始まり

この時期は、日本で本能寺の変があり、秀吉が天下を取りました。
その後、豊臣秀吉から、薩摩を通して琉球を日本に帰属させようとする動きが徐々に表面化していきます。
そんな中、尚永王は、30歳の若さでこの世を去ります。
尚永王には男子がおらず、浦添の分家である浦添尚家の長男で、尚永王の娘婿の尚寧が第7代王として即位します。
後に文献では、尚寧王の一族を浦添尚家、それまでの一族を首里尚家と分けて記述されました。
この時日本では豊臣秀吉が政権を完全に把握し、1591年には朝鮮出兵が決りました。

冊封使が尚永王を称え、琉球国こそ主礼の国であると言わしめたことを記念したものであると言われております。

薩摩藩の琉球侵攻の始まり

この時期は、日本で本能寺の変があり、秀吉が天下を取りました。
その後、豊臣秀吉から、薩摩を通して琉球を日本に帰属させようとする動きが徐々に表面化していきます。
そんな中、尚永王は、30歳の若さでこの世を去ります。
尚永王には男子がおらず、浦添の分家である浦添尚家の長男で、尚永王の娘婿の尚寧が第7代王として即位します。
後に文献では、尚寧王の一族を浦添尚家、それまでの一族を首里尚家と分けて記述されました。
この時日本では豊臣秀吉が政権を完全に把握し、1591年には朝鮮出兵が決りました。

その為、薩摩藩を通して琉球にも朝鮮出兵の兵士の食料を出すようにとの要請がなされました。
琉球王朝では、これにどう対応するかを模索していましたが、謝名親方がこれに順ずる事を強行に反対しました

薩摩藩の琉球侵略

日本では、政権が徳川幕府に変わっていました。
1609年、薩摩の島津家久から、尚寧王あてに家康に臣下の礼を尽くしに来るようにと言う書状が届きましたが、この返事に王は即応できかねていました。
3月、薩摩の軍勢が今帰仁の浜に上陸し、
琉球王朝は大した抵抗も出来ないまま、首里城に迫られて4月4日に降伏する事になります。

降伏後、尚寧王は従者百余名とともに首里城を後にして薩摩、江戸へと謝罪の旅に出る事になります。その途中謝名親方が薩摩で斬首の刑に処せられます。
それからは薩摩藩の琉球に対する干渉が厳しくなり、王に対しても掟15条と言う誓約書を渡され、それに従うよう強制させられます。  
尚寧王は、耐えて内政を充実し琉球国の再建復興を図るための政策を実行していきますが、1620年に亡くなりました。
 
遺言で、自分は薩摩に敗れた王だから、歴代の墓地たる玉陵に入ることは遠慮したい。 出来る事なら浦添にある英祖王の墓の横にでも葬るようにと言い残したと言われております。

さとうきび栽培

翌年、尚永王の弟の子供、尚豊王が王位を継ぎ第8代王として即位します。
彼も、内政の整備に力を注ぐ政策を実行していきます。この頃に、さとうきび(ウージー)から黒砂糖を作る産業が盛んになり、薩摩からの圧迫で苦しかった財政事情を助ける働きをしました。
さとうきびは、現在にいたるまで沖縄県の特産品として生産されつづけています。
尚豊王が亡くなられ、次の王は17歳の若さで即位し第9代尚賢王となりました。
尚賢王は「遠見番」をつくり、烽火の制を定め、黒糖、ウコンの専売制を始めました。
しかし、若くして亡くなってしまいます。

中山世鑑

尚賢王亡きあと、第10代の王は尚質王が継ぐ事になります。
彼の代に、琉球初の正史、中山世鑑がつくられました。当時、羽地按司になっていた向象賢(別名:羽地朝秀)が主になって資料の収集をし作成したものです。
薩摩支配下において書かれた琉球国の初めての正史であり、王家の系統を明らかにする為に編纂されたと言われております。
1650年成立し、全6巻。和文体で書かれており、和暦の採用や、源為朝が琉球に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとする記述などがありますが、事の真偽は不明です。

この当時の薩摩藩支配下において正史として扱われていましたが、今は俗説として語り継がれており、真偽は定かではありませんでした。1662年には北谷事件が起き、また摂政であった向象賢は聞得大君を王妃の下に置くように政令を発し、神人達の自由な振る舞いを牽制し、質素倹約令も実行して国民の負担の軽減に努め、農村の振興にも何かと心配りをしていきました。
尚質王が亡くなり、若い尚貞王の時代になると、象賢はやがて職を去ります。