わたしたちの歴史

沖縄県は昔、琉球王国と言う一つの国でありました。
1429年より、1879年までの450年間琉球諸島を中心に存在した王国であります。正式名称は琉球国、首都は首里でした。

琉球王国の初出は古く、まずは琉球の天地開闢神話から始まります。

天地開闢神話

琉球開闢の際に、天の城に住む天帝がアマミキヨに、神々が暮らせる「島」を創るよう命じました。その後、数万年経過したものの、人々は未だ居らず、天帝は自分の子供である男女を地上に降ろしました。

その後、二人は三男二女をもうけ、それぞれ長男は国王、次男は按司、三男は百姓、長女は君々(上級神女)、次女はノロの始まりとされました。

天孫氏王統時代

長男は「天孫氏」と名乗り、国の主として統治しました。天孫氏王統は25代続き、次代の舜天王統に引き継がれます。

舜天王統時代

舜天王統は3代続きましたが、第3代義本王の時に、大飢饉や疫病が蔓延し死者が多数出たので、責任感の強い王は、自らの徳の無さが原因だとと思い王政を任せる摂政を探し始めました。 

家臣達は天孫氏の末裔で、母親が太陽を宿す夢を見て懐妊したといわれ、幼い時にはテダコ(太陽の子供)と呼ばれた英祖を推しました。 彼が摂政になって数年のうちに災厄は無くなり民心も彼を慕うようになると、義本王は自ら王位を彼に譲り隠居致しました。ここから新しい英祖王統に引き継がれます。

英祖王統時代

英祖王は賢王としてよく国を治めましたが、英祖王統の第4代玉城王の時代に玉城王は酒色におぼれ道楽三昧の生活をおくっていたので、家臣、民衆の心は彼から離れ、勢力圏はおおむね三つに分かれてしまい戦国時代の様になりました。

彼の子供が10歳の時に第5代西威王として、即位しますが、先代が崩した国威を回復できずに王朝は滅亡に向かいました。西威王は若くして病死し、その後、世継ぎを擁立する動きもありましたが、「国安らかなるを得んやとして」世子を廃し、民から信望の厚かった浦添按司の察度を擁立しました。ここに察度王統が始まり引き継がれます。

察度王統時代

西威王は若くして病死した為に、周囲からは後継に察度を推す声が上がり、察度は王位に就くことになりました。察度王は当時の中国である明と関係を持つことが、勢力を維持拡張するために有効であると考え、貢物を載せた進貢船の第一号を明に派遣しました。

以降、明国との友好関係を長く続けることになったのです。

その後多くの明国人が沖縄に来るようになり、久米村に住み着くようになりました。彼らは久米36姓と呼ばれて、後まで活躍するようになります。

察度王は首里に王城を構えて75歳迄王位にありましたが、後年は驕りが見られたようで、評判はあまりよくありませんでした。

その後、2代目として、武寧王が即位します。

この時に初めて明の冊封使を迎えました。 これは、明国が即位承認するための立会いの使者の事です。

彼はなかなかの政治手腕を発揮して、明との政治的つながりを強めたりしましたが、傲慢な言動から人民、各地の按司から孤立していきました。

この頃、南部の佐敷の按司巴志が、大量の鉄を輸入して農具を作らせて農民に分け与えたことなどで評判になっていました。

巴志は、各地の按司達に推されて武寧王のいる中山を占拠、武寧王は城を出てそのままいずこへか去っていきました。 このように察度王統は短い期間で終わりを告げ、巴志の作る第一尚氏王統に引き継がれていきます。

舜天王統、英祖王統、察度王統時代の居城は浦添城であり、浦添市が政治の中心でした。

第一尚氏王統時代

巴志は、琉球がいまだに、南山、中山、北山と三つの勢力に分かれているのを憂いてました。

まず父親の思紹を王位につけ、1416年、諸国の按司と連合を結び北山王を攻めてこれを滅ぼし、22年には父の跡目をついで中山王になり冊封使を迎えました。

この時初めて、明国より王冠と冠服を送られ尚巴志と名乗りました。

琉球国の王冠 現在もこの王冠は文化遺産として残っています。 

1429年には南山をも手中に収め、三山を統一、初めて琉球全体の王となったのです。

貿易により経済的にも栄え、本島を縦断する道路を開き、宿場も置いて早馬による通信網を確保しました。

その後3代目尚忠王、4代目尚思達王、5代目は思達の叔父にあたる金福王が継ぎました。 その当時離れ島だった那覇と首里の行き来を便利にする長虹堤を命じて造らせたり、那覇の都市化に貢献しました。

しかし、わずか在位4年で尚金福王は亡くなり、その後の尚家は、後継問題で内紛を起こすことになります。

尚巴志の第七子に泰久がいました。

金丸(泰久が按司だった時の家来頭)、 阿麻和利(勝連の按司)の努力により、第六代の王位につく事になります。

しかし、護佐丸・阿麻和利の乱などがありながらも、それを鎮め尚泰久王は、その後も活躍しますが、1461年亡くなり彼の三男である尚徳が後を継ぎました。

尚徳王は、その当時日本の将軍であった、足利将軍に謁見し、火砲を総門の外で放ち、人々を驚かせるなど勇猛であったが、暴虐でも評判になり家臣頭の金丸の意見も聞き入れない振る舞いを行うようになりました。

1467年、彼は若くして病死したといわれています。

しかし、別説では久高島のノロとの恋にとらわれ、長居している間に首里城で革命が起こりそれを知って自害したと言う説も伝わっています。この後金丸が推され王位につき、第二尚氏王統へと引き継がれます。

第二尚氏王統時代

金丸が王位に就く前は、按司達が集まり、尚徳と意見が合わずに西原に引退していた金丸を王位に就けるべきだと、安里親方をはじめとする人々に推されました。

始めは辞退していた金丸も、ついに王位に就く事を認めました。 

彼は尚徳の子供として尚円と名乗り冊封をうけ王位に就きます。

これが1879年の廃藩置県まで410年にわたって続く第二尚王統の始まりです。 

尚円王は、第一尚氏の供養のために崇元寺を建立しました。

自分達の正当性を確立するために、「天子は天命によって天下を治めるが、不徳の者が出て国民に圧制を加えるならば、天は別の有徳者に天命を下し天子とする。」とする思想を発表し、第二尚氏の天命説をのべて、その地位を確固たる物にしていきました。 

第二尚氏王統は、第2代尚宣威王、第3代尚真王と続き尚真王時代には黄金時代を迎えます。

尚真王は50年の長きにわたり在位し首里の整備を始め、強固な中央集権を実現していったのです。 

琉球は那覇を中心に世界各地との交易も広げ、益々に海洋貿易国家として栄えていきました。

宗教的にも、自分の妹を神女の最高位・聞得大君にして、組織を確立したりもしました。